館長日記

進学塾弘文館ブログ

進学塾弘文館は、佐賀県の片田舎の進学塾です。思いついたことを、気ままに書いていこうと思っております。

人物本位入試(3)

 前回、人物本位入試は、「大学入試に合格することが目的化し、高等学校で本来養うべき多面的・総合的な力の育成が軽視されている。」(課題1)という問題についての解決策にはなりにくいということをお話いたしました。解決するためにはむしろ、成績本位の制度が必要になるでしょう。

 それでは、「大学入学者選抜で実際に評価している能力と本来大学が測りたいと考えている能力の間にギャップが生じ、学生にとっても大学入学後の学びにつながっていない。」(課題2)という問題についてはどうなのでしょう?

 少し前に早稲田大学の入試問題でさかさまの世界地図を見て小論文を書くという問題が出題されました。当然のことながら出題者は「この地図はさかさまです。」という解答は期待していないはずです。「見慣れたものでも視点を変えたら見方が変わる。」というような内容の小論文を書くことになるのではないかと思います。出題者はそのような発想ができる人物を入学させたかったと考えることができます。課題2を解決するためには、このように各大学が入試問題を工夫して、どのような人を入学させたいのか?どのような学生を育てたいのかを鮮明にするしかないように思います。少なくともハイレベルな知力が必要とされる大学入試の現場では、成績を最重要視するほうが「高等学校で本来養うべき多面的・総合的な力」を見ることができるし、「大学入学者選抜で実際に評価している能力と本来大学が測りたいと考えている能力の間にギャップが生じ」ることもないでしょう。

人物本位入試(2)

 最初に考えていただきたいことは、「スポーツで優秀な成績を上げようと努力することは悪いことか?」ということです。この質問に関してはほとんどの場合、異論はないでしょう。なかなか「悪い」とは言えません。それでは「テストでいい点数を取ろうと努力することは悪いことなのか?」という質問はいかがでしょう。もうひとつ質問があります。「勉強するために、体力や精神力は必要か?」という問いはいかがでしょうか。ここまでくると私の言いたいことがご理解いただけるのではないかと思います。スポーツと勉強をまったく同じ土俵で語ることはできないのでしょうが、スポーツにおいて厳しい練習を長期間続けることと、テストでいい点数を取るために努力するということは、そのモティベーションを維持するための精神的な強さや体力そのほかの要素も含めて酷似した部分があるのです。そう考えてみると人物本位入試ということは少なくとも課題1を解決する手段にはならないどころか、逆の結果を産み出すおそれがあります。オリンピックの競技で負けた選手が金メダルになって、勝った選手が銀メダルだったらいかがでしょう?その理由が負けた選手のほうがよりフェアプレイをしたからという理由だったら納得できますか?人物本位入試というのはそういうことなのです。

人物本位入試(1)

 教育再生実行会議の第4次提言「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について」というのを読ませていただきました。課題として

 

1、大学入試に合格することが目的化し、高等学校で本来養うべき多面的・総合的な力の育成が軽視されている。(課題1)

2、大学入学者選抜で実際に評価している能力と本来大学が測りたいと考えている能力の間にギャップが生じ、学生にとっても大学入学後の学びにつながっていない。(課題2)

 

などと分析がされているようです。たしかにそのような問題があるのは事実でしょう。そのような課題について「大学の多様な機能を踏まえ、大学教育の質的転換、厳格な卒業認定及び教育内容・方法の可視化を徹底し、人材育成機能を強化する。」という提言についてはもっともな提言だと思います。高校での到達度テスト(基礎レベル)大学入試での到達度テスト(発展レベル)の導入も考えられないことではありません。しかし、そのことと「大学入学者選抜を、能力・意欲・適性を多面的・総合的に評価・判定するものに転換する・・・」とは違うように考えています。

また、日を改めて、課題1と課題2について述べていく予定です。

道徳教育(2)

 前回は道徳教育について慎重に扱ってほしいということを述べました。今回はその続きです。

 現在、道徳の取り扱いは「各教科,外国語活動,総合的な学習の時間,特別活動のそれぞれの特質に応じて,学校の教育活動全体を通じて行います。」(文部科学省)と言うことになっています。各教科のなかで折に触れて扱うという方法が現実的なのではないかと考えます。国語は他の教科のベースともなる教科です。教科のなかでも道徳の内容に触れ教科は国語でしょう。例えば「走れメロス」が教材である場合「友情」について考える機会を設けるということは難しいことではないでしょう。従来の国語の授業から一歩踏み込む必要はあるでしょう。文部科学省の方々には、国語の充実も検討していただくようにお願いしたいものです。